out of control  

  


   28

 執務室から見えるセリノスの緑は、いよいよ柔らかく鮮やかな色になってきた。
 本当に、もう春なんだな。
 ネサラじゃねえが、俺も初めて気がついた気分だ。
 デインで俺があいつの命を奪って、それをセフェランとラフィエル、リュシオン、リアーネたちが取り戻してくれて、ネサラがもう一度目を開けるまでのこの二週間は、恐ろしく長かった。
 ヤナフのこともあったからな。ヤナフはあれからもう一回イレースに助けられて、どうにか意識を取り戻して…開口一番の台詞は「腹減った」だぜ? うれしくて飛びつくよりも先に笑っちまったよ。
 食い出してからのヤナフの回復は早かった。むしろいつまでも目を覚まさないネサラの方が重篤な状態に見えたほどだ。ヤナフもそりゃあ心配してくれたしな。
 結局、俺たちがデインからセリノスに帰ったのは一週間前だ。あの渓谷の後始末があったからな。
 惨状を目の当たりにしたら巫女が泣くか倒れるかするだろうと思っていたが、意外にそんなことはなかったな。
 ただ蒼白な顔で全てを見て、ただ深々と騎士たちに頭を下げた。
 それから誰よりも精力的に指揮を執った。立派なもんだ。
 昨日届いた一番新しい報告では持ち主の判明した遺品はクリミア、デイン関係なく可能な限り遺族に届けられるようにしたと書いてあったし、埋葬の準備も着々と進んでるらしい。
 冬の間は腐敗の進行がましになるが、暖かくなったらさらに酷い状況になる。この一月が正念場ってところだろう。
 ネサラのことについては、結局どうなるか肝を冷やしたのは俺たちだけで、セフェランも、ラフィエルたちも、鷺たちの方は皆「傷が癒えれば目が覚めるでしょう」の一言で片付けられちまった。
 いや、あいつらが言うんならそうなんだろうさ。だが、気が気じゃなかったんだぜ?
 ニアルチも不安そうだったとも。眠ったままじゃ床ずれになるかも知れねえし、大小便の問題もあるだろ?
 赤ん坊ならまだしも、一人前の大人のその類の世話は大変だ。だから俺も手伝うつもりだったんだが、意外なことにまったく問題なかった。
 飲まず食わずのせいか一切出さない。眠ってるだけで回数が少なくても、普通なら必要になるはずなのにだ。
 しかし、こういうものが止まると普通、人は死ぬもんだ。だからなおさら心配だったんだが、呼吸も心臓の動きも安定していて、確かに問題はなさそうだった。
 だからってなにもせずに見てるだけってのは気分的に無理だ。寝返りをさせたり、身体を拭いたりはしたがな。
 表から見える傷はもう消えていたが、中はわからない。だからこそ、見えない部分の傷までどうか治るように……。
 世話をする時にちらりと見たニアルチの手にはそんな思いが宿っていた。
 なんでちらっとしか見えなかったかって言うと、ネサラの身体を拭く時にいちいち部屋の外まで追い出されたからだ。
 これは俺だけじゃねえ。ラフィエル以外の全員がそうだ。
 なんつーか……あの時ばかりは無性にラフィエルがうらやましくなったな。いや、俺はべつにあいつの父親や母親になりてえわけじゃないけどよ。

「王、お茶が冷めますよー?」
「……あ?」

 そのまましばらく阿呆みてえに外を眺めていたら、いかにも呆れた様子のロッツに声を掛けられた。
 本人の希望で今は文官としての修行中なんだが、どうやらその仕事の中には「王のお茶を淹れる」ってのも含まれてるらしいな。まあこいつが一番仲の良い鴉の文官がシーカーだからってのもあるだろうが。
 あいつはネサラの腹心だ。おそらくニアルチの後釜なんだろう。じいさんに服の扱いから茶の淹れ方まで厳しく指導されてるらしいからな。

「今日のは自信作です! さ、どうぞどうぞ!」
「ほお、茶葉が浮いてねえな」
「当然ですとも! ミルクを入れますか? それともジャムを?」
「どっちもいらねえ。酒を寄越せ」
「王〜、それじゃお茶の味が台無しじゃないですかぁ」

 俺がどっかりと座って酒瓶を取るとロッツが情けない顔で取り上げようとしてくるが、知ったことかよ。
 匂いがどうの、色がどうの、そんな上品な茶は客になった時と客をもてなさなきゃならねえ時だけで腹一杯だっての。
 いつものようにブランデーを注いで一口飲むと、前にネサラに「どんなお茶も台無しだ」と言わしめた頑丈が取り得の分厚いカップを置いて、皿に乗っていたやたら固い棒状の…こりゃクッキーか? よくわからねえが。そのクッキーを噛み砕いた。

「あああ! だからそれはお茶に浸してから食べるんですってば! そんな、そのまま食べたら固いじゃないっすか!」
「あ? 歯応えがあっていいじゃねえか。菓子なんざ食うヤツが好きなように食っていいだろ。なかなか美味いぜ?」
「せ、せっかく鴉の料理人が作ってくれたのに…とほほ」
「言っとけよ。美味かったって」
「ジャムか、できればミルクを入れたお茶で楽しんで欲しかったんですよ。おれも試食しましたけど、そりゃもう美味かったんですから!」

 あー…なるほど。そういや、こいつは鴉の料理人の娘とどうも良い雰囲気だってのを聞いた覚えがある。
 話が見えてきておかしかったが、ここで笑ったら拗ねられそうだ。俺たちは獣牙族と同じで切って焼いたら充分料理だって感覚だが、鴉のこういうところはつくづくベオクと似てるな。
 ……まあ、キルヴァスの状況を思い出してみれば、美味く食うために工夫が必要だったって背景もあるだろうけどよ。あそこはほとんど肉なんか取れねえし、食い物は買わなきゃならなかったはずだからな。

「で、おまえは料理人の修行でも始めるつもりか? あれも力仕事だからな。向いてねえわけじゃないだろうけどよ」
「さすがにそれは無理っすよ! 見ていておれには無理だと思いましたし。その、おれは食材を調達するのをがんばるつもりです」
「……フェニキス行きか?」
「はい!」

 半分飲んだところでまた酒を足しながら訊くと、ロッツは迷う様子もなくまっすぐな目をして頷いた。
 このセリノスに三種族が住むことが決まって、フェニキスとキルヴァスは今大改造中なんだ。もちろん、それぞれの土地の特色を生かしてな。
 どちらに行くにしても、一年から数年の交代制になる。……この分だと、鴉の娘といっしょになるつもりだろうな。

「そうだな。もう鷹だけの国じゃねえ。戦士だけが花形の仕事じゃねえしな」
「ええ。最初は戸惑いましたが、慣れてみると自分に向いてるのがどんな仕事なのか調べたり、考えたりするのって楽しいですよ。力があるから戦士が一番だって思い込む必要はないなって仲間も言ってます。まあ、おやっさん方には情けねえ、それでも鷹かって怒鳴られたりもしますけどね」
「そうか」
「はい。なにせ新しい国ですしね。変わるところはあっていいじゃないかってのがおれたちの世代の意見で一番多いですね。鴉王も元気になってくださったようですし、鴉たちも喜んでました。なにせせっかくセリノスに戻られたのに、この一週間はご病気中だとかでちっともお顔を見られませんでしたしねえ」

 そりゃ、意識がなかったからしょうがねえ。
 なにがあったかは話してなかったからな。頭を掻いて笑うロッツに「そうだな」と頷くと、俺は紅茶風味のブランデーを飲み干して机の脇に積んだ書類を手に取った。
 もちろん、仕事をするためだ。ロッツもこうなったらもう邪魔をしねえ。
 ただ小声で「失礼します」とだけ言ってティーセットを下げて部屋を出て行く。
 さすがにこれだけ国を空けると仕事も溜まるな。ラグズ間だともう少し書類の数が減るんだが、ネサラがうるさく言って何事も記録を残すようになった分が増えた。もちろん、ベオクの国とのやり取りでは数倍…いや、もっと書類が多い。
 ったく、いちいち読むのが馬鹿らしいぐらいにどれも細かく書いてあって、そんなもんいちいち残さなくてもいいだろうってのが多すぎるから苛々するぜ。
 いや、もちろん、理屈はわかってるさ。書類に残していない約束を反故にされた場合、文句を言えないからだってのもな。
 しかし、こうでもしねえと約束を平気で破るとしたらそりゃ人間性ってのか? そういうもんに問題があるんじゃねえかと言いたくなるのは俺だけじゃねえはずだ。
 特にベグニオンからのものは俺の頭を悩ませた。言い回しもいやらしいし、あわよくばこっちを騙そうって意図まであるしな。リュシオンなんざ数枚読んだだけで熱まで出したほどだ。
 そういう意味でも、ネサラがこっち側についてくれたことは有難い。
 もっとも、しばらくは任せられそうにねえけどな。

『ティバーン……どうして俺は生きてるんだ?』

 傷ついた目をしていた。
 そりゃ、そうかも知れねえな。あいつはずっと死にたがっていた。
 俺もそれがわからないわけじゃねえさ。
 あの時も、あいつの顔はそりゃ安らかで…このまま死なせてやる方が良かったんじゃねえのか? そんな気持ちが俺の中に欠片もなかったと言えば、嘘になる。
 だから言えなかった。杖を使おうとするセフェランに、「頼む」とも、「やめろ」とも。
 あいつはなにも言わずにあの奇跡の杖を使ってくれたが……。
 取り戻したかった。なにもかも、やり直したかった。
 それも、俺の本音だ。
 馬鹿だよな。取り返しのつくことなんざなにもない。それぐらいのこともわからないようなガキじゃねえのに。
 俺の中には…どこかしら大人になりきれねえままの部分がある。
 あんな顔が見たかったわけじゃなかった。だからまだ言えねえんだな。
 あいつに、おまえが生きてくれていることがどんなに大事かってことさえ。
 十枚を越えた辺りか。大きなため息をついてばさばさと翼を動かして背中を解していると、今度はテラスが開いた。誰かと思ったらリアーネとリュシオンだ。

「ティバーン、大丈夫ですか? 手伝いますよ」

 リュシオンはまっすぐ書類の束に行き、リアーネは抱えていた花籠を俺の膝に置いてにこにことしてやがる。なんだ?

「ああ、今日はたくさん花が咲きましたから、花冠を作りたいのですよ。でもリアーネは不器用なので」
「おまえなあ…俺は仕事があるんだぞ? そんなもん、ネサラかラフィエルにでも頼みゃいいだろ」

 小さくて細い茎の花を見て呆れたが、それにはぶんぶんと首を振ってリアーネが抗議する。意味がわからねえ。
 代わりにリュシオンが教えてくれた。

「それはネサラに持って行ってあげたいのです。大体、ネサラにさせるにしてもあれで細かい仕事が苦手なのはご存知でしょう?」
「そういや、そうだったか? あれだけ字が綺麗だからな。つい器用な気がしちまうんだよ」
「それは同感ですけどね。兄上はニケ様と散策に出られましたし、なによりこういったことはあなたが一番上手いので。リアーネは綺麗な花冠を持って行ってあげたいんです」
「はは、そこまで見込まれたとあっちゃあ仕方がねえな。じゃあとびきり気合の入ったのを作ってやるさ。リアーネ、おまえの集めたレースのリボンがあるだろう。持って来い」

 花篭を机に置いて言ってやると、リアーネは輝くような笑顔になってこくこく頷いて飛び出していった。
 ははは、可愛いもんだ。

「ベグニオンからの書類は相変わらずですね……。意地が悪いというかなんというか、我々が装飾華美な文章は理解不能だと馬鹿にされている気分です」
「その通りだろ。書類ってのは本来、用件が明瞭、簡潔でなけりゃいけねえ。皇帝サナキも気の毒だぜ。この程度の部下しかいねえんじゃな」
「いいえ。真剣に仕えようとしている者たちもいますよ。これや…この書類からは、書き手の誠意が伝わってきます。あれだけ大きな国になると、人事も思うようには行かないそうですからね」

 そう言ったリュシオンが俺に見せたのは、些細な用件の書類だ。確かマナイルの大図書館に新しい本が入荷するから招待したいとか、礼状に対する返信だったか。そう言えばややこしい文面じゃなかったって程度で、俺は気にも留めなかったけどよ。

「なんだ? 書類に触っただけでわかるのか?」
「ええ。強い気持ちがこもっていればですが。あなたの返書でも時々感じますよ。あぁ、嫌だったんだなとか」

 そう言って笑ったリュシオンが、ロライゼ様から譲り受けたばかりでまだ感触に馴染んでないらしい王者の腕輪を撫でる。
 どうやら王位を継いで、力が強くなったようだな。

「ですが、この人たちはきっとサナキ殿の力になってくれますよ。手紙を出しても検閲でサナキ殿に届かないかも知れませんが、ネサラに頼んで知らせてもらおうと考えています。彼女が在位している間にベグニオンが安定してくれれば、我々としても助かりますからね」
「そりゃそうだ。……ネサラなら上手くやるだろう」
「はい」

 ネサラが使っていた椅子に腰を据えると、リュシオンは真剣な表情で書類の束を読み始めた。
 本当に頼りになるぜ。助かった。
 さて、俺はとりあえず花冠を作らなきゃならねえのか? それにしてもまあ、よくこんな小さな花ばっか集めやがって……しょうがねえな。
 水切りはしてあっても花は摘んじまうと生気がなくなってくるからな。帰って来たリアーネが持ってきた可愛らしいリボンも編み込みつつ仕上げていく間に一度リュシオンが呪歌を謡って、なんとか俺はリアーネが満足する出来の花冠を仕上げることができた。
 我ながらいい腕だぜ。シルクのヴェールでもつけりゃ、このまま花嫁の頭に乗せたっていいぐらいだ。

「ティバーン…昔から思っていましたが、本当に器用ですね」
「遠慮しなくていいぜ。昔から無駄な才能だってのはよく言われてるからな」
「無駄ってことはないでしょう。私が服に作ったかぎ裂きもよく直してくれたじゃないですか。ご自分のはなさらなかったのに」
「俺のはいいんだよ。ぼろぼろになったら丸ごと替えりゃいい」

 手を叩いて喜ぶリアーネに花冠を手渡すと、リアーネは俺の腕を掴んでぐいぐいと引いた。なんだ? 立てってか?

「いっしょに行こうって言っています。今日は一度もネサラに会ってないでしょう?」
「ああ、そりゃまあ…そうだが」

 正直、昨日はぎこちない雰囲気で別れちまったからな。どんな顔をして会えばいいのかわからん。そう思って返事を濁したんだが、リアーネは黙って俺の顔を見て、今度はもっと強い力で俺を引っ張り始めた。
 おいおい、白鷺の姫が肘掛に足をつくなよ。しょうがねえお転婆だな。

「わかった、わかったって。――ったく。リュシオン、行って来るぜ」
「はい。ざっと見た感じでは、あとの書類は私でも大丈夫そうです。ゆっくりしてきてやってください。ニアルチに聞いた話ではまだ少し熱っぽいらしいので、機嫌は良くないかも知れませんが」

 ゆっくりしてこいと言われても、そいつァネサラの機嫌次第だな。
 生真面目に胸を張るリュシオンに笑って執務室を出ると、俺は歩いてもどこかふわふわとした雰囲気のリアーネの頭に手を乗せてため息を堪えた。
 リアーネに限ってとは思うが、嫌々ついてきたなんて誤解をさせたくなかったんでな。

「ん?」

 ここからネサラの部屋まではすぐだ。俺とリアーネじゃ歩幅が違うからな。早いとこ用を済ませようと思ってリアーネを片腕に抱えたところで、くいくいと服を引っ張られて足を止める。

「どうした? 手を出せって?」

 袖を引かれるまま手のひらを見せると、リアーネが華奢な指でなにやら書き始めた。古代語じゃねえ。現代語だ。

「なんだって? とうさまが…?」

 フェニキスも、キルヴァスも大丈夫そうだよ、か?
 口に出すよりも早くリアーネが頷く。視線を合わせると、俺の顔を見る若葉色の大きな目にはどこか悪戯っぽい光もあった。
 そうか。もしかしたら……。

「ネサラに?」

 こくりと頷く。次いで、俺の胸をとんとんと叩かれた。

「……いっしょに行って来い、か?」

 また頷かれた。
 ったく……。意味をわかって言ってんのか?
 苦笑した俺に表情を改めて、リアーネが俺を見つめる。ひたむきな、真摯な眼差しだった。
 ……わかって言ってるんだよな。それがどういうことなのか。

「リアーネ。おまえはネサラが好きなんだな」

 頷いて、俺の胸を叩く。

「そうだ。わかるか?」

 また頷いた。今度は笑顔つきだ。
 それからそっと俺の耳元に口元を寄せ、いつもとは違って掠れた、そして真剣な声で言ったんだ。

「まよ、ってる…から。ダメ、って。わたし、ネサラに…わらって、ほしい」
「ああ、俺もだ」
「ティバ…ーンさま、も、おなじ」
「俺が?」

 なんだ? 迷ってる……?
 乾いた咳をしたリアーネがこくりと頷いた。
 いけねえ、これ以上声を出させたらまた元の木阿弥だな。

「わかった。もう大丈夫だ。喋るな」
「………」
「わかってるさ。そうだな。ロライゼ様がそう言ってくれるなら…一度、いっしょに行く」

 この返事じゃまだ足りねえらしい。リアーネが真剣な目で続きを促してくる。
 ったく……いつだって容赦がねぇのは女だな。

「ネサラにも、ちゃんと話す。……大事なことをな」

 やっと笑ってくれた。
 ネサラにはにこにこふわふわしてるくせに、俺にはこうだ。こういうところを見ると、逆に面白く感じるのは俺の悪い癖だが。
 笑顔で出された手のひらを見て、俺は軽くその手のひらを叩いた。なにかが成功したり、いい感じにやれた時に鷹がよくやる仕草だ。
 本当はいい音が鳴るぐらいの力でやるもんだが、そんなことをすると怪我をさせちまいそうだからな。
 リアーネには足りなかったらしく、俺の手を掴んでもう一度叩いて自分で音を立てていた。そんなに弱くないとでも自己主張するように。

「ネサラ、入るぜ」
「これは鳥翼王様、それにリアーネお嬢さまも」

 らしくねえな。妙に緊張しちまってよ、扉の前で一度深呼吸してからノックしたら、まずニアルチが出迎えてくれた。

「王……」
「なんだ、もういいのか?」
「はい」

 入れ替わりに出てきたのはウルキだ。そういや、ネサラじゃねえとわかりそうもない書類を頼みに行くとか言ってたな。
 ぺこりと頭を下げたウルキはそのままネサラの部屋を後にして、俺はリアーネといっしょに中に入った。
 するりと俺の腕を抜け出したリアーネがネサラの座る寝台へ急ぐ。

「なんだこれは。花冠か? すごいな」

 リアーネが無邪気に差し出した花冠を手にとってしみじみと眺め回す姿は、まるでベオクの鑑定士のようだ。
 綺麗なモンはただ綺麗で終らせても良さそうなもんだがな。これもこいつの性格なんだろうよ。

「この仕事は、リアーネじゃないな。あんたか?」
「おう、なかなかの仕上がりだろ?」

 笑って俺を見上げたネサラにリアーネはにこにこと頷き、俺は寝台の脇に置かれた椅子に腰を下ろした。

「あんたの腕なら、花嫁のヴェールだって作れるだろうな。鴉の職人よりも器用なんじゃないか?」
「馬鹿言え。いくらなんでもその道の職人に失礼だろ」

 繊細な飾り結び仕上げにしたレースのリボンを触るネサラの言葉に真面目に言い返すと、ちょっと意外そうに目が丸くなる。

「なんだよ?」
「いや…あんたでも謙遜することがあるんだなと思って」
「ば…ッ、謙遜じゃねえよ!」

 こいつ、どれだけ俺が自信家だと思ってやがるんだ!?
 思わずリアーネがいることも忘れて怒鳴っちまったんだが、リアーネはちょっと翼を竦めただけで動じず、ふわりと浮いてネサラの膝の上にくつろいだ様子で座った。

「こら、リアーネ……」

 困った表情になったネサラに、まるで「重い?」とでも訊くように小首をかしげる。ったく、わかっててやってるな?
 ただでさえ体重の軽い鷺の、それも女だ。重いはずがねえよ。今でもリアーネの体重は雛のように軽い。

「しょうがないな。おい、俺の頭に飾るのか?」

 にこにこと頷かれて、仕方なしに頭を差し出す。慎重な手つきで花冠を乗せるリアーネは、まるでネサラを嫁に迎えたように得意げだ。
 普通、リアーネが嫁になるはずなんだがな。どうもこいつらの場合は逆転してるように見えてしょうがねえ。
 ラフィエルとニケの夫婦はともかく、どうして鴉王であるネサラと白鷺姫のリアーネで同じ現象が起こってるのやら。
 もちろん、どっちの組み合わせもお似合いなんだが。

「これはこれは、ぼっちゃま、ようございましたなあ」
「良くない。どうも昔からリアーネは俺に対して男女の区別が曖昧だな。ん? いや、うれしくないわけじゃないさ。ありがとう、大切にする」

 そこに甘い匂いの茶を運んできたニアルチが加わり、ひとしきり俺たちはセリノスの昔話に花を咲かせた。

「リアーネ?」

 俺としちゃ、慌てる話でもねえしよ。今日はこのまま帰ってもいいと思ってたんだが、ハーブティーを飲み終わってまず立ち上がったのはリアーネだった。
 収まりよく膝にいたのに、驚いたんだろう。ネサラが小首をかしげる。

「どうしたんだ?」

 リアーネはそんなネサラの頭を一度抱きしめると、ネサラのブーツの手入れをしていたニアルチの腕を引いて立ち上がらせた。

「リアーネお嬢さま? もしや、私にも立てとおっしゃってるんですかな?」

 ニアルチもわけがわからないと言うように目を瞬くが、まあ、そういう意味だろうな。あれは。

「ニアルチ。なにかおまえに頼みたいことでもあるんだろう。行ってやれ」
「は…ぼっちゃまがそうおっしゃられるのでしたら」

 ニアルチがリアーネに逆らえるはずがない。なによりネサラの一言でニアルチは丁寧にネサラのブーツと手入れ用具をしまい、「早く、早く」と急かすように飛ぶリアーネに引っ張られて部屋を出て行った。
 なんつーか……あの強引さは、もしかしなくても血筋か?
 そう言えばロライゼ様やリリアーナ様も強引なところがあったしなあ。

「……これは、どうしたらいいんだ?」
「あ? 似合ってるからしばらく乗せておけよ。力作なんだぜ?」

 しばらくしてから呆然としたネサラが花冠を乗せたままそんなことを言うものだから、俺はちょっと笑って答えてやる。
 まだ熱っぽいと聞いていたわりには顔色がいいな。そっと額と首筋に触れると、やっぱり暖かい。

「な、なんだ?」
「いや。調子は悪くなさそうなんだが、微熱が下がらないのか?」
「………わからない」

 困った表情になったネサラに、俺も少し考えた。もしかしたらなにか妙な病気じゃねえだろうな。
 おいおい、せっかく命を取り戻したんだぞ? 病気だったら大事(おおごと)じゃねえか!

「――ウルキ、ここにベオクの医者を連れて来い。今すぐにだ」
「ティバーン…!」

 ネサラは抗議の声を上げたが、撤回はしねえ。
 当然だ。ネサラがラグズを専門に診るというベオクの医者を気に入ってないのは知ってる。だが、どんなに嫌がろうとこの手の心配の種だけは取り除きたいからな。

「本当に人の気持ちを考えない男だな…!」
「うるせえ。俺は大事にするものの優先順位を譲らねえだけだ」

 氷のような目で睨まれたが、そんな抵抗は赦さねえ。
 腕を組んで平然と言い返すと、ネサラは悔しそうに視線を背けて頭の花冠を取った。それでも投げ捨てずに寝台横のテーブルに置く辺り、俺と違って育ちの良さが見える。
 ほんのりと耳が赤い。頬も。
 匂いは…普通だよな。いつものネサラだ。病気の気配はないと思うんだが……。

「なんだよ?」
「いや、どう見ても前より顔色が良い気がするんだがな」
「そりゃ…本当にどこも悪くないからだろ」
「じゃあ、どうして熱が下がらねえんだ?」
「そんなこと訊かれたって、」

 わからない。むっとしたネサラがそう言う前に片手を頬に添えた俺の親指が唇を塞ぎ、ネサラが黙る。
 そのままネサラがぎこちなく俺を見た。俺もネサラを見る。
 ……外すか。黙らせてえわけじゃねえんだ。

「悪い」
「いや…」

 そっと手を離してなだめるように掛け布団越しに膝を叩くと、ほんのりと赤くなったネサラが俯いてため息をついた。

「出て行けよ」
「あ? なんで?」
「俺を…医者に診せるんだろ」
「そうだ。鳥翼王である俺がラグズの専門医ってのがどんなもんかこの目で見てえのは当然だろ?」

 文句があるかよ?
 そういう意味も含めて言ったんだが、ネサラはそれでようやく納得したんだろう。諦めたように笑って言いやがったんだ。

「そうか…。それなら、見ていればいい。ラグズ専門の医者に仲間を診せるってのがどういうことか」
「……ネサラ?」
「勘違いはするなよ。腕は確かだ。俺が見て知っている限りではな」

 一体、どういう意味だ?
 訊く時間はなかった。
 テラスの外から賑やかな声が聞こえて、当の医者がウルキに連れてこられたからだ。

「飛ぶな〜飛ぶんじゃない〜飛ぶな〜」
「……なんだ、ありゃ」
「翼のないベオクだからな。そりゃ、恐かったろうさ」
「あぁ……なるほど」

 なんだか間の抜けた登場の仕方だな。テラスの窓が開き、ウルキに腕を掴まれてかくかくと膝を震わせてようやく立っている男が、当の医者らしい。
 神官服の時はもっと痩せて見えたが、痩せ型でいかにも頭が良さそうなベオクの中年男だ。

「あ…あぁ、死ぬかと思った…」
「落とさない。…二度言った」

 その男がふうふうと息をつきながら、懐から取り出したモノクルを鼻に引っ掛ける。なるほど。こうして見ると、いかにも医者だか学者だかって風情だな。

「それで、患者はどこに……おや、鴉王?」

 ウルキが開けた窓から部屋に入ってきた男がネサラを見て目を丸くする。なんだ? 面識があるのか?

「そうか。意識が戻ったと聞いたが良かった。おおい、鷹の男…いや、ウルキ殿だったかな。私の鞄をこちらへ」
「――膝をつけ! 鳥翼王の御前だ」
「!」

 いそいそと鞄を運ばせる男に、ネサラのよく通る声で鞭のような命令が叩きつけられる。
 弾かれたように男が膝をつき、俺に対して平伏の姿勢を見せた。こんなことは必要ねえとはとても口を挟めねえような剣幕だ。

「鳥翼王様。デインでもお目にかかりましたが、怪我人の治療に奔走する余り正式なご挨拶ができないままでしたこと、ここに深くお詫び申し上げます。ラグズ医のコモンでこざいます」
「いや…まあ、なんだ。翼の骨折の治療だの手術だのの手順を書き起こしてくれてるらしいな。助かるぜ。できりゃ詳しく教えてやってくれ」
「はい。それはもう。それで、その…私は鴉王様を診ればよろしいのですか?」
「そうだ。微熱が下がらないようでな」
「なるほど。しかし、お顔の色は悪くないようですが……」

 首をかしげた男がネサラのそばに寄り、ネサラが少し強張ったような気がした。なんだ? ウルキも気がついたんだな。微妙な表情をして俺を見る。
 そんなに緊張するほど嫌な男には見えねえけどな。
 そう思って首をかしげたんだが、強い酒をしみこませた手巾で丁寧に手を拭いた男がネサラの口を開けさせてヘラのようなもので舌を押さえて喉の奥まで覗き込んだり、下瞼の裏側の色を見たりしたあとのことだ。
 いきなりネサラの夜着に手を掛けて腹までネサラを脱がせて、俺とウルキは唖然とした。
 いや、そりゃ女じゃねえよ。女じゃなくても、怪我をしてるわけでもねえのに、当然のように脱がせるか!?

「胸だの背中だの叩いてなにかわかるのか?」
「あー、はい。まあ…。異常な音はないですねえ。鴉王様、ゆっくりと息を吸って、吐いてください」

 今度は先端が広くなった棒状のものを胸に当てて…なんだ? あれも音を聴いてるんだよな?

「呼吸も、心臓の音も異常はないはずだ……」
「おや、確かに。ちゃんと音の違いがわかる方もおられるんですねえ。呼吸音と、心の臓の音に雑音が入ると良くないのです」

 なるほど。それは言われてみればわかる。
 ウルキは昔から本人が気付くよりも先に身体の不調を当てたが、理由は「いつもと音が違う」だったしな。
 だが、不審に思いながらも黙って見守っていられたのはここまでだった。

「では、うつ伏せになってください」
「………」

 半ば脱がされていた夜着を着なおしたネサラが一段と強張った表情になりながら、言われた通りにうつ伏せに寝る。
 ウルキがなにか言いかけたが、それを読んだようにネサラが睨み、唇を噛み締めた。
 コモンが掛け布団をめくり、今度は油薬らしきものを指に纏いつかせてネサラの夜着をめくった。
 ネサラの夜着は下穿きのない、膝丈のものだ。それで下着までむき出しになる。鷹はともかく、男でも人前で鴉がここまで脱ぐことはまずねえ。
 あげく下着に無遠慮なコモンの手が掛かり、赤くなったネサラがきつく目を閉じる。下着が膝まで一気に引き下ろされるまでが俺の我慢の限界だった。

「ちょ、ちょっと待て!」
「はい?」
「てめえ、さっきから見ていたらいちいちなにをする気だ!?」
「なにとはおっしゃられましても……。鴉王様のお熱を測ろうとしているだけですが」

 思わずめくり上げられた夜着の裾を引き下ろして怒鳴ると、コモンは不思議そうに目を瞬かせやがる。

「熱を測るって、だからってどうして下着を脱がせる? そんなもん、脇だの首だので大体わかるだろうが!」

 だが、ネサラの方が容赦なかった。

「ティバーン、黙って見ていろと言ったはずだ!」
「そ、そりゃそうだけどよ、なんで下着を脱がすんだよ!?」
「あのう、正確な体温はですね、直腸で測るのが一番でして――」
「ちょく…!?」

 ま、まさかネサラの尻に指を突っ込むつもりであんな…ッ! 憤死するかと思ったぜ。ああ、本気でな!

「てめえ、まさかヤナフに治療した時もあいつの意識がないからってそんな真似しやがったんじゃねえだろうな!?」

 俺の怒声に、気を遣ってネサラの夜着がめくられた時点で背中を向けていたウルキも振り返る。頭に来て胸倉を掴んだんだが、コモンは俺を恐がる様子もなく苦笑して答えたのだった。

「してませんよ。ヤナフ殿の場合は首の後ろで測るだけでも充分わかりましたし。ただ、鴉王様は微熱だとおっしゃっていたので、体内の様子を見ようと思ったのです。鴉の平熱は大体存じ上げておりますのでね。中を診ればわかりますから」
「……ちょっと待て。ラグズを専門に診るってのはつまり……」
「はい。私はラグズ奴隷の健康管理をするのが仕事でした」

 そうか…そういうことだよな。
 いや、頭ではわかってるつもりだった。だが……。
 今さら愕然とした俺とウルキにネサラが続ける。

「そいつが身につけた医術は本物だ。ラグズを奴隷扱いだけじゃなくて、もっと大事にしたがる酔狂なニンゲンもいやがったからな。もちろん、持ち物としてでしかないが。だから医術も発達したのさ」
「そうですね。……その影に、多くのラグズ奴隷の犠牲がありました。私も『助ける仕事』ばかりしてきたわけではありませんし」
「……どういうことだ?」
「そういうことです。詳しい話は、鴉王様にお尋ねになった方が良いですよ。少なくとも今、私を殺すと、私の頭の中にある多くの有益な情報が無に帰しますから」

 ゆっくりと俺の手から離れたコモンは、赤い顔をしたまま睨むネサラに肩を竦め、油をつけていた指を手巾で拭う。

「どうも治療の必要はなさそうですね。鴉王様は健康です。私が存じ上げているころの鴉王様は、杖を使われすぎて代謝が悪くなったためか基礎体温が低くて…。むしろそちらの方が心配だったのですが、今は健康そのものと言っても良いと思いますよ」
「健康…?」
「はい。少し熱く感じるかも知れませんが、そのくらいが普通の体温です。もっとも、鴉王様の場合はそれでもほかの鴉よりは体温が低めな気がいたしますが。それで、鳥翼王様? ほかになにか気になることはおありですか?」

 どうやら、これ以上のことはさせなくて済みそうだな。元のように座りなおすネサラの肩にショールを掛けてやってるところに訊かれて、ネサラと顔を見合す。
 とりあえず、ネサラに問題がないならいいだろう。そう思って俺が答える前にネサラが言いやがった。

「おい、鳥翼王も熱があるようだ。詳しく見てやってくれ」
「は!?」
「そうですか。わかりました」
「わかりましたじゃねえ! ウルキ、てめえも断れ! 熱なんかあるかッ!!」

 ったく、とんでもねえ仕返しだな、おい!
 慌ててまた油薬を取り出したコモンを止めると、俺はじっとりとしたネサラの視線を針のように背中に感じながら、どうにかコモンを追い返すことに成功した。ウルキには面倒を掛けたが、とりあえず何事もなくて良かったぜ。

「おまえなあ、嫌なら嫌だと言やぁいいだろ? なんだ、そこで見てろって」
「はン、嫌だと言ってあんたが聞き入れるとでも? あれぐらいは普通のことだ。男も女も、あれだけじゃない。吸収が良いから、意識がないからって後ろに…いろいろされるんだ。奴隷だからな。気を遣う必要なんかない」
「ネサラ」
「あぁ、そう言えばベオクの場合はベオク同士の治療でもそうするみたいだが、俺はよく知らない。奴隷として生まれればそれがどんなに嫌なことかわからないし、わからないから俺は見ていると余計嫌で仕方がなかった。知ってるか? 普通のラグズは死ぬと人型に戻る。でもどうしてニンゲンの屋敷にあれだけたくさんのラグズの毛皮や剥製があるかわかるか? 暴れられたら手に負えないからな。薬を使って、生きたまま、皮を剥ぐんだよ。それも医者の大事な仕事なのさ。皮を剥ぐ前はやたらいい食事になって、奴隷たちは戦々恐々として――あいつは、ルカンの屋敷にいた医者の息子だ!」
「ネサラ…!」

 一気に叫んで頭を抱えようとしたネサラを、俺は堪らず抱きしめた。
 よりにもよってどうしてルカンの屋敷にいたようなヤツを…! いや、あとから聞いた話では、ペレアスの書状を受け取った皇帝が一番腕が良い者をとあいつを選んだらしいが、恨み言の一つも言いたくなるじゃねえか。
 だが、しばらくして高ぶった気持ちが収まったんだな。俺の胸元で静かなため息が聞こえて、おずおずと上がった手が遠慮がちに俺の背中を引く。

「悪かった……。あんたが知らないのは無理もないのに。それに、あいつの父親は確かに嫌な男だったが、あいつ自身は誰に似たのか、奴隷に惨い真似をするのは好んでなかった」
「そうなのか?」
「そうだ。だからルカンの不興を買って放逐されたんだ。神殿に入ったって聞いてたから、研究はそこでもやってたんだろうが」
「なるほどな。だが、腕は確からしいぜ? 鷹の連中も何人か診てもらった。今のところ不満は聞いてねえけどな」

 そう言うと、ネサラは小さく笑って俺の胸元から身を起こし、乱れた夜着の裾を直しながら言ったんだ。

「それは…鷹は大らかというか、大雑把だからな。少々のことをされても医者の治療だと聞けばそんなものだって思うからじゃないのか?」
「おいおい、だからって女房や恋人の尻に手を突っ込まれて平気なヤツはいねえぞ!?」

 当然だろうが。
 そんなつもりで言ったんだが、ネサラはぎこちなく膝を抱えながら呟く。

「一応…言っておくが、それが間違った方法だってわけじゃないからな。確かに外からじゃ体温を測れない時もあるだろうし、ちゃんとした理屈もあるそうだ。俺は、やり方に驚いて嫌悪感ばかり先立ったんだが、口からよりも吸収がいいならその…後ろから薬を入れることだって不自然なことじゃないだろ」
「いや、そりゃおまえ…俺だって嫌だぞ?」

 それこそ、そんなことを赦せるのはそういう仲の相手だけだろうよ。
 そう言いかけて俺は口を噤んだ。ようやく緊張が解れてきたところで下手なことを言って、妙な意識をさせたくねえ。

「しかし、そうか。おまえは本当にいろんなものを見てきたんだろうな」
「…………」

 ネサラは黙って膝を抱える腕に力を込めた。
 俺は、その半分も知らねえんだよな。それに、こいつも思い出すのが辛いことばかりで、話したくもねえだろう。だが……。

「ティバーン…?」

 どうも、俺は弱ェな。
 こいつが落ち着くまでと思っていたのに、つい伸ばした腕で引き寄せて抱きしめちまった。
 ネサラが抱えていた膝ごと抱くと、ゆっくりと力が抜けて俺の腕に収まる。

「ネサラ、本当に身体はもう悪くねえな?」
「あ、あぁ、もちろん。言われてみれば、微熱を出してるわけじゃないってのもわかったし……。そういえば食欲もある」
「そうか。昨夜はともかく、今日は朝も昼も全部食ったらしいな」
「筒抜けなのか」

 それも、いつもみたいにどうにか飲み込むってんじゃなくて、ぺろりと食ったと聞いたら俺までうれしくなる。
 呆れた様子のネサラにちょっと笑って、俺は落ち着かねえネサラの翼を何回も撫でた。翼に触れるのは信頼されてる証拠のようなもんだ。
 ……もっときつく抱きしめてえ。
 それにしなやかな身体の体温は、確かに前よりも少しだけ高い。裸で抱き合ったらさぞ気持ち良いだろうな。
 そこまで考えて興奮が下半身に行きそうになって、俺は慌ててネサラを離した。

「ティバーン?」
「いけねえ、書かなきゃならない書類を一枚忘れてた」
「は? 王のくせにまったく……」

 もちろん嘘だ。
 ネサラは気づかなかったんだな。呆れた様子で前髪をかき上げる。そんなネサラの肩を抱き、俺は言った。
 本当はこのことを伝えるためにわざわざ来たってのに、忘れてたんだ。

「それからな、仕事に復帰する前にちょっとおまえに付き合ってもらいてえとこがあるんだ」
「俺に?」
「そうだ。おまえが健康なら、少々の距離を飛んでも問題ねえだろう」

 まっすぐ深い藍色の目を見つめて頷くと、ネサラはなにか言いかけた口を閉じ、思案するように睫毛を伏せる。
 この様子じゃどういうつもりなのかとか、一体どこへ連れて行くつもりなんだとか、いろいろ考えてるんだろう。
 だが、先に言うと嫌がるだろうからな。それがわかっていて俺はなにも言わなかった。

「明日の昼ごろ出発だ。迎えに来る」

 名残惜しく腕を離して立ち上がると、ネサラも釣られたように寝台から降りる。
 俺を見上げる顔が妙に緊張していて、思わず足が止まった。

「俺…俺は……」
「なんだ?」

 やっぱり顔が赤いな。本当に熱を出してるんじゃねえのか?
 思わず心配になって首の後ろに手を回すと、ネサラが竦んで俺は慌てて手を離した。

「ネサラ?」

 だが、長い時間じゃなかった。
 一度きつく目を閉じてもう一度俺を見上げた時にはもう、見慣れた「鴉王」の顔だ。

「書類…ややこしいのがあるなら、呼べよ。もう寝てるのも飽きた。体調に問題がないことがわかったんなら、起きても問題ないだろ?」
「そうだな。じゃあ、俺とリュシオンで手に負えそうにねえものがあったら頼むぜ。どうせ落ち着いたらまた外に出るんだ。おまえがいてくれる間に片付けてくれたら助かる」
「……あぁ」

 頷いて、肩口を滑った蒼い髪を後ろに流す。
 それが妙に艶っぽい仕草に感じて喉を鳴らすと、俺は久しぶりに鼻に感じる涼やかなネサラの匂いを心地良く嗅ぎながら身を屈めて一瞬だけ、ネサラの唇に口づけた。
 我ながらガキのように拙い仕草で。

「じゃあ、な。また明日」
「…あ、う…うん」

 目を丸くして頷いたネサラの仕草もぎこちねえ。
 こんな素直な返事、本当に何年ぶりだよ?
 そう思ったら笑いたくなって、やっと肩の力が抜けた。
 あーあ、ったく……。なにやってるんだろうな。俺は。

「おまえの読みたがってた本も書庫に増やしたぜ。おまえのことを心配した特急運送のクリミア担当の鷹からの見舞いの品だ」

 のろのろと唇を押さえたネサラがこくりと頷く。

「気が向いたら読んで、礼でも言ってやってくれ。きっと喜ぶ」

 もう一度。
 だんだんとまた赤くなってきた顔を見ていたらどうも妙な気分になっちまいそうで、俺はそれだけ言ってとっとと部屋を出た。
 あんな顔をさせて逃げたようで、なんだか情けねえような気もするが、しょうがねえよ。あれ以上同じ部屋の空気を吸ってたら俺の理性がやばい。

「おや、鳥翼王様、もう御用は済みましたので?」
「ああ」

 飛ばずに執務室に向かって廊下を歩いていると、丁度戻ってきたニアルチがにこにこと訊いて来る。そうだ。ニアルチにも言わなきゃいけねえな。もちろん、明日のことだ。

「鳥翼王様?」
「明日…ネサラを借りるぞ。多分何日かは戻らねえ」
「は?」
「ニアルチ、きっと――大事にする」

 我ながら先走ったことを上ずった声で、だが正直に言った。
 さすがは年の功だ。すぐに意味が伝わったんだろう。
 いつもは瞼の奥に隠れたニアルチの目が丸くなり、まじまじと顔を見られた。ここで俺ができることは、せいぜい頭を下げることぐらいだ。
 事実、一度はそれだけのことをやっちまってる。ニアルチには、それも話した。
 あの時も殴られるぐらいのことは覚悟していたが、ニアルチは黙って俺を見ているだけで、もう、気にしなくても良いと――。そう言われて、詰られるよりも痛かった。
 今もそうだ。黙って俺を見ているニアルチに、俺はこれ以上のことはなにも言えねえ。この老いた侍従が、どれほどネサラを大事に思い、守り、育ててきたか知っているからこそ。

「ぼっちゃまのお父上にも……」
「え?」
「その言葉を伝えてさしあげてくだされ。鷹だけは赦さぬとそれはもう何度もおっしゃっておりましたが……」

 ああ、確かにあの親父さんらしいな。鷹はがさつだ、乱暴だといつも怒っていた。
 俺に言わせりゃ、あの親父さんだって充分乱暴だったけどよ。もちろん、ネサラの扱いは別としてな。

「いつか、こんな日が来るのではないかと思っておられた。ぼっちゃまはお小さいころからそれはもう鳥翼王に懐いてあそばして……もう、本当にそんなお歳になられたのですなあ……」

 そう言ったニアルチがなんだか泣き笑いのような顔をして、俺はただ黙って聞いていた。
 ニアルチが黙って首を振る。まるで迷いを捨てるように。
 それから、ゆっくりと禿げ上がった頭を下げた。いくら俺が鳥翼王とはいえ、ラグズだ。
 まして俺は主家の者ですらない。昔のようにネサラがしでかしたことで俺に詫びを入れに来たわけでもねえ。ニアルチほどの年長者が俺みてえな若造相手に、本来だったらあり得ねえことだった。

「どうか…お願いいたします」

 なにに対してじゃねえ。そう言われて、俺は深く頷いた。もちろん心からだ。
 そんな俺にやっと笑ったニアルチが言う。

「お父上へのご報告は、事が過ぎてからの方が良いでしょう。ご気性の激しい方でしたから、鳥翼王が雷にでも撃たれてはぼっちゃまが泣いてしまわれますからな」
「……わかった」

 いや、笑えねえだろ。それがありそうだから恐いんだよ。

「それではわたくしめは、ぼっちゃまが幸せそうなお顔で帰ってくることを祈ってお待ちしておりますゆえ」
「ああ」
「くれぐれも、お願いいたしましたぞ」

 最後にもう一度俺に念を押して、ニアルチはネサラの部屋に戻って行った。
 お願いいたしましたぞ、か……。重い約束だな。

「王……」

 執務室に戻ると、ウルキがいた。リュシオンは見当たらねえ。

「リュシオンは?」
「書類を持って…ご自分の部屋に戻られました。その方が落ち着くからと……」
「そうか」

 さて。予定を立てたなら、今日中にやれるだけのことはやっておかねえと。
 そう思って執務机についたら、ウルキも無言でさっきまでリュシオンが座っていたネサラ用の椅子に腰を下ろした。

「なんだ、手伝ってくれるのか?」
「友人の一世一代の勝負が掛かっている……。できることはしてやりたい」

 そう来たか。聞こえちまったらそりゃ気になるよな。

「ありがとうよ。助かるぜ」
「礼には及ばない。……だが、固く凍りついた心を溶かすのは…炎の激しさだけでは叶うまい……」
「ああ。わかってる」

 俺が頷くと、ウルキは引き出しから羽ペンを取り出しながら、ようやく表情を柔らかくして言ったのだった。

「ティバーンの気持ちが…通じることを願っている」
「………俺もだ」

 とにかくまずは、生き延びたことを後悔させたくねえ。
 言葉を尽くしたってきっと届かねえだろう。誰よりも上辺だけの言葉を聞いてきた、思い知ってきただろうあいつだからこそ。
 だから言葉じゃねえ。もっと確かなものを、あいつに見せたいんだ。俺は。
 ネサラの切れ長の藍色の目の奥に覗く、どうしようもねえ深い孤独を思い出しながら、俺は溜まっていた書類の山を真面目に片付けはじめた。





back top next